早稲田大学のボラティア団体と一緒に1日宮城県の石巻市に行ってきました。どうしても自分の目で現状を見たくて、被災地の雰囲気を感じたかったので、思わず応募してみた。地震が起きてから1ヵ月半も経った今でも、被災地では水や食料がなく、ライフラインが何一つ整ってない状況に留まっているし、街中ががれきの山で、空気が埃まみれだし、ボランティアの私たちはマスク、ゴーグル、長靴、水や食料を自分で用意しなければいけなかった。とても甘くない現実が待っているのが、最初からわかった。みんなが集まった出発の夜に、先生方や職員たちの真剣な話を聞いて、被災地に行く実感がつくづくと伝わってきた。

石巻専修大学に一旦行って仕事を振り分けられた。専修大学には、自衛隊のテント、それから他のボランティア団体のテントが立っていた。皆さんも長い間ここに滞在しているだろう。前回のボランティア活動は学校に振り分けられたみたいだけど、今回私たちは神社の掃除を頼まれた。現地の人はどうしても5月5日にお祭りをやりたいらしいので、それに間に合うように私たちは1日神社周辺のがれきを運び出し、ゴミを捨てることになった。専修大学のほうではさほど津波の被害は受けていないみたいだったけど、神社のほうに行けばいくほど、周りの風景がその被害を如実に表していた。本当に言葉の通り、がれきの山がいたるところにあった。車がとんでもない形で、とんでもない場所にある。家の形が崩れ、屋根が地面に落ちてたりしてた。その風景が果てしなく続いている。

かっぱ着て、ゴーグル、マスクをかけて、ヘルメットを被って作業するのが面倒くさかったけど、やっぱり埃が飛んでるので、マスクとゴーグルをするのは自分のためだとわかった。土地ももちろん奇麗なものじゃなかった。まずは大きいゴミ、がれきを境内から持ち出し、それから、細かいごみをビニール袋に入れて捨てる。簡単な作業に聞こえるかもしれないけど、「大きいゴミ」というのは、今まで「ゴミ」とすら見做したことない電柱とか車の部分とか屋根とかだった。大きいゴミを捨てるのに2時間ぐらいもかかった。もちろん体力も結構尽きた。「小さいゴミ」といったら、がれきの下に見つかった誰かの本、おもちゃ、CD、写真などなど。そのときみんなはゴミ扱いしてたけど、よく考えてみれば、それは誰かのものであって、その人はどこにいるかは知らないけど、人のものを勝手に捨てちゃっていいのかと思ったが、さすがに仕方ないことだった。

お昼の時間には神社を管理している宮司さんと近所の佐藤さんと宮司さんの娘さんからお話をいただいた。20分を話す予定だったが、みんなが話したいことが山ほどあるみたいで、結局40分になった。それぐらい私たちボランティア、それから被害を受けていない人たちに伝えたいことがあったんだろう。宮司さんの一家はみんな無事だったみたいでよかったが、近所では死者と行方不明者が少なくなった。地震が起きて津波警報が出たときに、まず自分の身を守らなきゃいけない。約束の場所があろうが、助けたい人がいろうが、まずは自分の命を守らないと、どうにもならない。今回の震災で亡くなった人の多くは、誰かほかの人を助けようと、探そうとして、高い所に登れずに津波に流された人だったらしい。

地震が起きてから4日間ぐらい救助を待つだけだった。食べ物や飲み物は非常に限られていて、1日にバナナ1本を2人で分けたり、水カップ半分を一人で飲んだりしていたという。でも、やはり大震災に生き残った人だけあって、飢えなんて感じなかったと、宮司さんがおっしゃった。佐藤さんはこの町の会計をやっている人で、今回の震災で行方不明者と死者を確認する係だ。口を開いた瞬間に、涙を呑み込んだのがわかった。辛い思いで、それから人に助けてもらっている感動のあまり、一瞬言葉にできなそうだったけど、落ち着いてから、お話を始めると、伝えたいことが多いらしく、話が止まらなかった。

宮司さんの娘さんも涙を堪えながらお話をしていました。今まで経験した津波は何十センチのしかなくて、10メートルの津波が来ると聞いたときに近所の人と5分間ぐらい立ち止ったらしいんだけど、最終的に幸い助かったけど、やはり津波が来るときに、躊躇せずに逃げるに限る。30センチの津波で歩けなくなる、60センチで流されると、宮司さんが真剣な顔でおっしゃいました。

印象に残ったもの。何枚もの家族写真。子供たちのおもちゃ。家の中に突っ込んだ車。倒れた桜の木の枝には桜が満開に咲いていた。

私たちにはここでボランティア活動が終わるのではなく、いかにこの経験を人に伝え、感動させ、刺激を与えることだ。たとえ2回も3回も被災地に行けなくても、亡くなった人、それから生き残った人の教訓を得て、生きていけたらと思います。

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