(2010年1月30日に作成)

日本に来て2年間が瞬く間に過ぎようとしている。気づいたら4年間の留学が半分終わろうとしている。あの時憧れていた日本での留学生活はまさに夢そのものだった。人生を小説に例えたら、この4年間は、この先何十年が経とうが忘れはしないと言わんばかりに、栞でマークづけられている。美しい思い出や素敵な出会いで彩られたこの芸術の絵画は決して薄っぺらなものではない;その中には深い意味が潜んでいるのだ。作った友達と学んだ知識だけではない。それに伴う貴重な経験も私たちに一生携わっている。この貴重な経験が締まっている金箱には、喜怒哀楽という矛盾だらけの感情の孕んだ経験ばかりだ。

荷物をガラガラ引っ張って東京成田空港に到着した瞬間、この国に溢れている神秘さに包まれていた。人と人の間では温かさを感じつつ、面白いことに、その正反対の冷たさの壁にもぶつかってしまう。日本という国は一体温かい国なのか、冷たい国なのか、その時はとても戸惑わされていた。顔の表情に貼られたいつまでも消えようとしない燦爛な笑顔と、店で立ち尽くしている店員の熱いサービス精神は、間違いなく日本人の温かさの証なのである。しかし、それと引き換えに、ラッシュアワーに駅などで見かける光景は、あたかも日本の温かいイメージを潰そうとするかのように、悲惨なものだ。人間という単語を知らないか、周りの人をとにかく横に押し、電車に向かって必死に走る。電車に入ろうと、中の人を気も遣わずに力いっぱいで押し込もうとする。電車の中では自分の世界に夢中になる。小説、雑誌や新聞を手にして、食い込むかのように読んでいる。手すりを握ってそのまま寝る人も何人か見かける。周りに何十人、何百人の人もいるにもかかわらず、それはまるで「人」じゃなくて、「もの」だと見做しているだろう。他の人はともかく、自分はとにかく電車に乗らなければ、遅刻するから、否応なしに自分を電車の中に入れようとする。

駅に着いたら、電車から流れ出る人ごみもどうも見苦しい。同じ電車に閉じ込められて開放されたかのように、電車を出たら周りの人を厭わんばかりに電車から走る。「すみません」を口にするが、それは心底からのお詫びの言葉には聞こえない。無表情な顔にはこんな言葉が出るはずがない。「すみません」の過剰の利用のせいか、その意味はすでに忘れられている。口にする言葉と心で思うことは一致しない。それは日本というより、東京で毎日見かける光景ではないか。エスカレーターを下りる時も、規則を守って左側に立つが、それはみんなが効率よく駅から出られるようにこう並んでいるのか、それとも規則を守らなきゃいけないと思い、それを守るだけなのか。規則には意味がある。規則を盲目に守るというのは、その意味を知らずに、みんながこうしているから私もこうしなきゃという。

階段の降りたところに、時にはティッシュを配る表情を匿う人がいる。「はい、どうぞ」というセリフを一日何千回も繰り返して言い、同じ動作を何千回もしなければならない。何かを渡すときに、感情をこめて誠実にしなければいけないと、昔習ったのではないか。なのに、大人になると、それを頭から外してしまう。渡す相手をも見ずに手を伸ばすだけとは、小学校ですると必ず先生に怒られる行動ではないか。

表と裏、という両面を持つ日本という国と文化は甚だ不思議だと思う。だけど、謂わば「郷に入っては郷に従え」というので、この国のことを憎んでも仕方がない。自分が慣れるしかない。むしろ、この不可解な文化が好きなのかもしれない。この文化を翻す必要はないが、この文化を作り上げたルーツを再び認識しなきゃいけない。もともとの文化はいいものだっただろう。だからこそ、こんな素敵な国が出来上がっただろう。しかし、進歩していくうちに根本的な部分が取り除かれ、取り忘れられ、そのうち色々歪んでしまった挙句、今の矛盾だらけの国になってしまった。

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